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伝説の山吹御前のお墓(・ω<)---☆


周辺のピリリっとした空気感が半端じゃなくて、
お客様がいらっしゃると必ず案内していた山吹神社ダイヤダイヤダイヤ

山吹神社

なんとなくごいすーな方のお墓があるとか?ないとか?
あれがお墓?ただの石ぢゃね???
適当にめぐっていたのぎょーん汗汗汗

中山地域事務所で詳細が書かれた文献をお借りできました。予想をはるかに超えてごいすーーーーー音符

往還路を辿って

読み飛ばしたい気持ちをおさえて、必読。千年前から、佐礼谷の人達は心優しいことを裏付ける歴史があった!!!!

御前と言えば、山吹の時代。

▲山吹御前
伊豆に流された身となっていた源氏の本流である源頼朝が、平家追討のために挙兵した。それに呼応して従兄弟の木曽義仲が長野県木曾谷で挙兵したのは、治承4年(1180)9月のことであった。
まず父の領地であった現在の群馬県に攻め入ったが、頼朝とのまさつを避け、北陸道を進んで京を目指した。
養和元年2月(1181)平清盛が崩じ、源氏方の気勢は挙がった。寿永2年(1183)5月、平維盛の率いる大軍に対して、たいまつを角につけた牛の大群を放ち、倶利伽羅峠より谷底に蹴落し京都に迫った。
その勢いは、あたかも朝日が昇るようであったため、人々は朝日将軍と呼んだ。平家はこれを恐れ、安徳天皇を奉じて西国に走ったので、義仲は7月京に入った。当時の京都は猛暑の上に、義和・寿永の飢餓と悪疫のため、死者は5万人を超えたといわれる。
こんな中で、本来寄せ集めの義仲群の統制は乱れ、民に対して乱暴が続いたため、後白河法皇は源頼朝に義仲追討を命じ源範頼・義経の大軍が京いに迫った。
平家物語巻9に「木曾は信濃を出でしより、巴、山吹とて2人の美女を具せられたり、山吹はいたわりあって都に止まぬ」とある。義仲は巴のみをつれて追討軍に立ち向かうのである。山吹の支障というのは、病であったとも、妊娠であったとも伝えられている。
こうして翌寿永3年(1184)正月、義仲は巴とともに滋賀県粟津が原に敗死する。
義経らは次いで平家追討の手をゆるめず、2月一ノ谷の戦いで平家一門を四国へ追い、翌寿永4年(1185)2月にはこれを屋島に破り、3月24日壇ノ浦に平家を亡ぼすことになる。
こんなあわただしい正史の裏側から、山吹の哀しい史話は始まる(義仲は京に入ってから、前関白大政大臣藤原基房の娘、伊子を正室に迎えている)。
いたわりあって京に止まった山吹は、六条河原にさらされた義仲の首を浚い、近江へ通じる馬町街道が家並みを出た辺りで、その霊をとむらったという。生前伊予守であった義仲のえにしから、少数の供と供に伊予を差して落ち延びたと思われる。
しかし、その伊予の国とて文治2年(1186)他の伊豆・相模等五か国と共に頼朝の所領となっており、山吹一行に対する風は冷たかったに違いない。
某月某日、一隻の舟が伊予の灘浦(伊予群双海町上灘)に着いた。ひそかに上陸したわずかな人影に囲まれていたのは病んだ山吹であった。
一行は上灘川に沿って真東に見える山方に向かって進んだ。そして今の双海町大栄口翠小学校の所より坂道にかかる。一行は竹を切って笹舟として、これに次第に衰えを見せる山吹を乗せ、右の山肌を斜行しながらその山頂まで引き上げた。これはさながら人形浄瑠璃「ひらがな盛衰紀」の「笹引の段」の光景と同様であったと思われる。
このような伝承をもとに、この坂を曳き坂と呼び、たどりついた山頂で楯を築いておそらく一夜を明かした地を築楯という。その辺りの集落を高見と呼ぶのは、はるか伊予灘に沈む夕陽を望見した名残と思われる。
一行は、ここからさらに勇を鼓し、現在の国道56号を東に向かって横切り、山に分け入って中山町佐礼谷平野に出て、再び山中を越えて札場に至った。
この時まで山吹はその波乱の生涯を終えたと思われ、衣装替えの地とうい地名の箇所で死装束となったのであろう。その亡骸はわずかな従者や、心優しい地元の人々によって丁重に山吹集落の地に葬られ、山吹御前となりその上に五輪塔が建てられたという。
五輪塔から旧大洲街道を隔てて建立されている山吹神社は古い本殿と戦後改築された拝殿とから成っている。元佐礼谷村長であった篠崎思通氏は篤くこれを敬慕し、小冊子「山吹御前の歌」(昭和37年9月)を刊行した。その中に、現存する本殿に関する記述がある。
「明治25年(1892)発起、現在の社殿を造営するに当たり、元里正 鷹尾吉循氏は、当村県道に接する小字山吹と申す所は、先年木曾義仲の婦人山吹御前と称する御前の御陸墓有り、平加奈盛衰紀をご覧の御方にはあまねく御承知のことにて行路の伝説に依りて明らかなり、然るに此の頃事実は埋もれ年を経て御祭りする者も無く、世に伝える山伏塚の如くになり行き実に勿体なく我が輩の愁ふる所なり、行末次第に粗末に取扱ふ事を畏み嘆きの余り、此の頃近隣の有志相集まり今より神祭して山吹大神と唱え、神祭を取り行い陸墓をも取繕い度くの志願により各篤志直信の御方に御加盟を願い力を併して所願の成就されんことを希ふ所である。

明治25年旧閏6月10日 社殿建立
寄付事始め
同26年旧2月18日 大工仕事始め
同27年旧11月10日 落成式
大工頭領 山口県大嶋群西方村 門井友祐
左官 中山村長沢 宮田六太郎
建築世話人 三谷貞五郎、西岡亀太郎、久保田兼五郎、篠崎寅吉、谷為蕎、山本竹治郎、梶原熊五郎
祭礼 毎年4月18日 祝宴
余興 9月18日 子供角力

右の平加奈盛衰紀なるものは未だ承知していませんが、当時の里人の気持ちは今日に至るも棄て忘れるることは出来ないのが
此の土地に住む者達の一様の心理であると思います(後略)」
なお、喜多郡長浜町豊茂の一宮家の記録には、山吹御前は猿谷(佐礼谷)にて女児音若を出産、これが八多喜村(大洲市八多喜)
神地平治郎に拾われて一宮家の先祖の妻になったとあり、更には、山吹御前の家来が、佐礼谷源氏集落に住みついたとか、
家来の墓は坪之内の安場にあるとかの諸説が絶えない。
なお、当地ご出身の森岡正雄氏(伊予市在住)が、佐礼谷のみならず全国にまたがる山吹御前の遺跡を調査せられての
「山吹御前の史話を追う」(平成元年4月刊)は貴重な資料である。わが山吹御前もまた、全国から思わぬ人々の参詣や踏査に遇っている。


▲中山佐礼谷地区 山吹神社
住所:愛媛県伊予市中山町佐礼谷丙1143

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